直希の思いを聞いた、あおいと菜乃花。
二人の心に、これまで以上に強い決意の火が灯された。 私たちを信じてくれている直希さんの為にも、全力でこの問題に立ち向かっていこう。 二人の思いは、言葉にせずとも入居者たちにも伝わり、皆が一丸となって、あおい荘を守っていくんだという気持ちになっていった。山下の症状は、幸いあの日の一時的な物で済んでいた。次の日にはいつもの山下に戻っていて、あおいは胸を撫でおろしたのだった。
しかしあおいの心に、介護の世界の厳しい現実を見た衝撃は深く残っていた。 私の知っている世界は、まだほんの僅かな物でしかない。こんなことで動揺していては、一人前のヘルパーになれない。あおいの中に、静かに決意のようなものが生まれつつあった。
* * *
そんなある日、直希は役所に行かなくてはいけない用事が出来た。相変わらず節子が付きまとい、離してくれなかったのだが、連れて行く訳にもいかず困っていた時に、西村と生田が声をかけてきた。
「ほっほっほ。ナオ坊や、そんなに毎日節子さんを独り占めするもんじゃないぞ」
「西村さん……独り占めってそんな、いじめないでくださいよ」
「ほっほっほ。たまにはほれ、この老いぼれにも華を持たせてくれんかの」
「え……」
「と言う訳だ。西村さんと相談してね、今日は私たちが、節子さんのお相手をさせてもらおうと思ってね」
「生田さん……いいんですか」
「ああ。君も少し、羽根を伸ばしてくるといい。と言っても仕事で行くんだし、そうはならないかもしれないが……でもよければその後で、少し気分転換でもするといい。大丈夫、任せてくれたまえ」
「そういうことじゃ。ささ、節子さんや。今日はこのダンディーな男前が、お相手してしんぜよう」
「生田さん、西村さん……ありがとうございます」
「気を付けて行っ
脳裏から、風呂場で見た菜乃花の姿が消えなかった。 事情を聞いて真っ青な顔をしている生田をよそに、早々に布団に潜り込んだ兼太は、菜乃花を思い浮かべながら悶々としていた。 * * * 初めて出会ったあの日。 頭の中が生田のことでいっぱいだったにも関わらず、菜乃花から目を離せなかった。 これまで幾度となく、女子に告白されていた。しかし兼太は、恋なるものがどういうものなのか、よく分かっていなかった。 恥じらいうつむく女子に向かい、「ちなみに、俺を好きってどういうことなのかな? 俺、よく分からなくて」 と不思議そうに見つめ、首をかしげていた。 しかし菜乃花に会ったあの日。ようやくそれがどういうことなのか、分かった気がした。 目に涙を浮かべ、心配そうに生田を見つめる菜乃花を見て、全身に鳥肌がたった。 それから3か月。毎日菜乃花を思い浮かべ、眠れぬ夜を過ごした。 ――もう一度会いたい。あの天使に。 そう思い、勉学に励んだ。 そして再会。彼女が髪を切っていたことに驚いた。 肩まであった、あのふわふわな髪。顔を埋めて眠りたい、そんな妄想をしていた髪がなくなっていた。 しかし自分の気持ちが、何ひとつとして冷めていないことを感じた。 むしろ、前に会った時よりも魅力を感じた。 弱々しく映っていた彼女。しかしその中に兼太は、強い何かが眠っていることを感じていた。今目の前にいる彼女は、正に自分が思っていた彼女だ。そう思った。 俺は彼女に恋している。そう確信したのだった。 そんな彼女のあられもない姿を目にしてしまい、申し訳なさと同時に、抑えようのない気持ちの昂りを覚えた。 何度も何度も、アプリに加点と減点を繰り返しながら、兼太は眠りについたのだった。「菜乃花ちゃん……やっぱ天使だよ、君は……」
兼太が分からないままに、食堂中が穏やかな笑いに包まれていた。 先程のやり取りから、入居者たちもそれとなく、兼太の気持ちに気付いているようだった。しかし、その兼太に向かい節子の放った一撃が、「それを言ってしまったら駄目でしょう」とばかりに入居者たちの笑いを誘った。 入居者たちが、顔を真っ赤にして動揺する兼太に温かい視線を送る。「そうだ兼太くん。節子さんはね、国語の先生だったんだよ」 少しかわいそうになってきた直希が、そう言って兼太に助け舟を出した。「そうなんですか?」「うん。特に節子さん、純文学には目がなくてね。兼太くんは好きな本とかあるのかな」「そうですね、一応は……子供の頃から母ちゃんに言われて、結構読んでましたので」「どんな本さね」「本」というワードに反応し、節子が兼太に問いかける。「そう、ですね……俺はどっちかって言ったら、昔の本より今の本の方が好きです。ファンタジーとかSFとか」「昔のは面白くなかったかね」「いえ、面白い面白くないとかじゃなくて……なんて言ったらいいんでしょう、やっぱり古典だなって言うか、堅苦しいって言うか。話の展開もあまりなくて、ちょっと退屈って言うか」「……」 兼太の言葉に、節子は目をつむって黙って聞いている。「この前も、その……芥川龍之介の『トロッコ』を国語の時間に読んだんですけど、何て言うか、別に? それで? としか思えなくて……」「やっぱり童〈わらし〉さね、あんたは」 そう言って、節子が小さく息を吐く。「子供ってのは、とにかく話の展開だけを追うもんさね。話が面白いかどうか、興味はそこにしかないもんさね。だから展開が少ないと、良さを感じる前に拒絶してしまう。 今あんたが言った『トロッコ』、私もよく教材として教えたもんさ。でもほとんどの生徒は、退屈そ
「しっかし……中学生はないわよね」 夕食の準備をする菜乃花に向かい、つぐみが微笑む。「菜乃花は可愛いし、若く見えても仕方ないとは思うけど」「つぐみさん。それって私が幼いってことですか」「いえいえ、そういう意味じゃないからね」「本当、失礼な人ですよ、兼太くんってば」「あははっ……」 怒ってる顔も可愛いな、そう思いながらつぐみが苦笑した。「でもね、菜乃花。今はそう思うかもしれないけど、もうちょっとしたら、今度は逆のことを思うようになるのよ」「どういうことですか?」「実際の年齢より、若く見られたいって思うようになるってこと」「そういうものでしょうか」「まあ、私の場合は昔から、実際より年上に見られてたからね。特にそう思うんだろうけど」「つぐみさんは、その……しっかりされてるから」「……ごめん菜乃花。それって何のフォローにもなってないから」「ええっ? ご、ごめんなさい」「別にいいんだけどね、もう慣れちゃったし。でも……それにしても中学生はないわ、やっぱり」「全く……話をしてて、ずっと違和感があったんですよ。大体兼太くん、私より年下なんですよ? せめて同級生ぐらいだったら、私もこんなに怒らなかったのに」「あはははっ……でもほら、もうすぐ兼太くんも来るんだから、いつまでもそんな顔しないの」「……分かってますよ、そんなの……」「二人共お疲れ様。いい匂いだね」 節子の入浴を済ませた直希が、食堂に現れた。「あ……直希さん、お疲れ様です」「直希、お疲れ。節子さんも、さっぱりしてよかったですね」 相変わら
「やってしまった……初手でいきなり、やってしまった……」 生田の部屋。 アプリに-5点を入れ、兼太が頭を抱えていた。 そんな孫の様子に苦笑しながら、生田が声をかける。「確かに菜乃花くんは、少し幼く見えるのかもしれないが……それにしても中学生は酷すぎたな、兼太」「じいちゃん、追い打ちかけないでくれるかな」「ははっ。だが、いきなりお前が来たものだからな、かなり驚いたぞ。今日は学校、休みだったのか」「ああ、うん。今試験休みだから」「そうか……試験はどうだったんだ。手応え、あったのか」「あったと思う……さっきの菜乃花ちゃんとのやり取りに比べれば、それはもう遥かに」「そ、そうなのか……それで、せっかくの休みだと言うのに、どうしてあおい荘に……あ、いや……聞くまでもないか」「いやいやじいちゃん、誤解してるから。じいちゃんのところに来たかったのは本当だから」「そうなのか?」「うん……そうだ、さっきのがあったからすっかり忘れてたよ。じいちゃん、この前はその……母ちゃんが変なこと言って、本当にごめん」「なんだお前、まだ気にしてたのか。あの時にも言ったはずだぞ。お前が謝ることなんてないんだ」「でも、その……俺のせいでもあるんだよ」「どういうことだ?」「俺が母ちゃんに言ったんだよ。いつまでじいちゃんを放っておくつもりなんだって」「……」「家族は大切だって、母ちゃんいつも俺に言ってた。実際母ちゃん、身内に対しての愛情はすごく持ってる。でも……それなのに母ちゃん、じいちゃんに対してだけはそうじゃなかった。ばあち
「それでその、他の方たちは」「一人は生田さんの見守りで、お風呂場にいます。覚えてませんか、あおいさんって言うんですけど」「あおいさん……ああ、覚えてます。風見さん、ですよね。あの時じいちゃんに、自分のことも名前で呼んでほしいって言ってた、ちょっと面白い話し方の」「面白いって、ふふっ……そうですね。あおいさんの口調、ちょっと面白いですよね」「ああでも、馬鹿にしてる訳じゃないんです。何て言うか、あのお姉さんにぴったりの話し方だなって思って」「そうですね。あおいさんって言ったらあの話し方、ですよね。ふふっ……あと、直希さんとつぐみさんは、ご存知でしたよね」「はい。お二人とは、初めて来た時に挨拶させてもらってます」「二人は入居者さんの付き添いで、病院に行ってるんです」「病院って、何かあったのですか」「あ、いえ、そういう訳ではなくて……新しく入ってこられた入居者さんなんですけど、最近調子がよくなってきましたので、確認の意味で検査に」「そうだったんですね、よかった」「それでその、兼太さんはこんな時期にどうして? 今日は金曜ですし、学校もまだ」「うちの学校、試験休みなんです」「え? まだ11月なのに」「はい。うちは進学校なので、普通の学校とはスケジュールが違ってて。今月いっぱいが休みで、12月からはまた授業が始まるんです」「私のところは二週間先です。それが終わったら、試験休みと合わせてそのまま冬休みで」「普通はそうですよね」「試験休みの後で、まだ一か月授業なんて。大変ですね」「いえ、俺にとってはそれが普通なので。それにどうせ家にいても勉強してますし、そんなに変わらなくて」「兼太さんは、その……進学先は、もう」「はい。医者になることを目指してますので、国立の医学部に」「お医者さんで
あおい荘の門をくぐった少年は、花壇の前で足を止めた。 穏やかな笑みを浮かべ、今日の点数2点追加だ、そう思いスマホのアプリに加点する。「こんにちは! 失礼します!」 玄関に立った彼。 生田兼嗣の孫、兼太は元気いっぱいに声を上げた。 * * *「おじいちゃんの家に泊まる?」 夕食の済んだ生田家。兼太の言葉に、父の兼吾が意外な顔をした。「うん。俺、母ちゃんとの約束守って、期末試験も頑張った。手応えもあったし、これなら多分、学年10位以内は大丈夫だと思う」「そうか。お前、頑張ってたからな……しかしなるほど、そういうことだったのか」「あれから俺、じいちゃんの家に行きたくて、何度も母ちゃんに頼んでたんだ。でも母ちゃん、受験生がそんなことでどうするんだって、聞いてもくれなかった。でも俺、どうしてもじいちゃんに会いたいんだ。だから父ちゃん、駄目かな」「いや……いいんじゃないか」「よしっ!」 兼太が拳を握り、嬉しそうに声を上げる。「ちょっとあなた、勝手に話を進めないでもらえます? 兼太、私は反対ですよ。試験が終わったぐらいで浮かれてどうするの。受験まで気を抜いてる暇なんてないんですからね。そんな覚悟で受かるほど、あなたの志望校は楽じゃないのよ」「俺のって言うか、母ちゃんの志望校だろ」「まあまあ、兼太も仁美も落ち着きなさい。兼太、母さんの言うこと、分かってくれるよな。母さんはお前の為、あえて嫌われ役になってくれてるんだ」「……分かってるよ。俺だって子供じゃないんだから」「仁美、お前もだぞ。考えてもみなさい。兼太がお前の言葉をないがしろにしてることなんて、今まであったか? こいつはこいつなりに考えて、お前の言いつけを守ってる。だから……たまにはこいつの言うことも、聞いてやってくれないか」「でも……